【NBA選手】NBA最強の髭 ジェームズハーデン 最強のスコアラーになるまで (初投稿!!)
nba75周年記念チームに選ばれ、今ではNBAトップレベルのオフェンス能力を誇るジェームズハーデン。 ジェームズハーデンがここまで昇り詰めるまでの過程を見ていきましょう。
1,幼少期
1989年8月26日、ロサンゼルスのコンプトンでうまれた。
本名はジェームズハーデjrだがジェームズハーデンと名乗っている。
理由は、父親の子供とは父親の子供だと思われたくないからだ。
父と一緒に過ごしたことはほとんどない。
父は、薬物依存症で何度も刑務所に入っていたからだ。
そのため、幼かったハーデンは父を信用していなかった。
母は女手一つで3人の子供を育てていた。
母は、治安の悪いコンプトンで犯罪から遠ざけるためにハーデンに家計が苦しい中、バスケをやらせてあげていた。
ハーデンは、ボールを抱いて寝るほどハマっていた。
11歳の時に参加した南部のリーグであのラッセル・ウエストブルックとともだちになった。
お互いに同じ夢を持っていたためすぐに親友になり、頻繁に電話しあっていた。
中学生になると朝の7時から、深夜の2時まで練習することはザラにあった。
そのころハーデンが母に向けて書いたとても有名なメモが、
”7時に起こしてください。
そしてバスケに必要だから何ドルか置いておいて欲しい。
P.S,この手紙は取っておきなよ。ぼくはスターになるからね。”
2,高校時代からドラフト
猛練習のおかげで高校生時はスターだった。
この頃から、ジノビリを真似てユーロステップを使っていた。
高校3,4年の二年間は合わせて3敗しかしておらず、チームは州大会2連覇。
多くの強豪大学にリクルートされていたが信用していた監督が移籍した、アリゾナ州立大学に進学した。
アリゾナ州立大学は10年以上NCAAトーナメントとは無縁の弱小大学だった。
だが、ハーデンが加入したことでNCAAトーナメント2回戦まで勝ち上がった。
ハーデンは、オールアメリカンに選ばれ、有名誌の表紙を飾った。(髭を生やし始めたたのもこの時期)
ひげをはやしはじめたのは、大人っぽく見えるからだったが今ではパーソナリティになっている。
2009年ドラフト3位でokcから指名された。(同期には、カリーやグリフィンがいる)
3,OKC時代
当時のokcには、デゥラントとラスもいた。
前評判が高かったものの、ベンチスタートであったため数字の面では、周囲の期待にこたえられなかった。
だが、前年23勝だったokcがハーデンの加入後50勝まで勝ち星を増やし、プレーオフに進出したのは偶然ではない。
二年目、ベンチスタートではあったがシックスマン賞の候補に選ばれるほど成長した。
チームは55勝し、15年ぶりにカンファレンスファイナルまで進出した。
3年目には史上2人目のわかさでシックスマン賞を受賞した。
チームはスパーズを破り、ファイナルに進出したがヒートに敗北してしまった。
4,HOU時代
契約延長交渉がまとまらず、トレードされてしまった。
HOUではスタメン起用され開幕戦から立て続けにハイスコアを連発し、スコアラーとして開花した。
平均得点20点代後半をとりつずけスコアラーとしての成長は止まらずチームは、強豪となった。
2016年マイク・ダントー二がヘッドコーチに変わったことでポイントガードにになった。
ゲイムメーカーとしての役割が見事にはまり、2017年アシスト王になった。
その後、モンスタースタッツを連発し得点王とMVPを受賞した。
ハーデンの活躍で当時最強だったウォリアーズをあと一歩まで追い詰めた。
5,BKN時代
個人としての栄誉はすべて手にいれたが、優勝できていないことに不満を感じ、ネッツに移籍。
ここでは、カイリー、デゥラントとともにBIG3と呼ばれた。
しかし、チームメイトのケガやワクチン未接種問題のせいで、BIG3そろって戦う機会がすくなく、優勝を逃してしまった。
6,PHI時代
プレーオフ第二戦でヒートに4-2で敗北。
契約延長では20億以上の減給を受け入れ、チームの補強を優先した。
このことから優勝したいと思う気持ちが過去一番強いことがわかる。
7,最後に
初投稿なので、ぎこちないところがあったら申し訳ございません。
来シーズンではエンビとのデュオに注目です!!
1度は優勝してほしいと思う選手です!!
受賞歴
シーズンmvp
得点王×3
アシスト王
シックスマン賞